海に眠るダイヤモンド和歌の意味は?山桜の百人一首を徹底考察!

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ドラマ『海に眠るダイヤモンド』は、作品の中で和歌が登場するシーンがあります。

どんな意味があるのか非常に興味深いけど、”何だか和歌って難しい”と言う方も多いのではないでしょうか?

特に今回はドラマの中で登場する、山桜の和歌について深掘りしたいと思います。

『海に眠るダイヤモンド』の登場人物たちの心情と、山桜の和歌がどのように結びついているのかを考察します。

物語全体に対する理解を、ちょっとだけ深めるきっかけになるかも知れません。

 

海に眠るダイヤモンド山桜の和歌のシーン

まず、ドラマの中で桜の和歌が登場したシーンを振り返ってみましょう。

 山桜の和歌が出てくるシーン①

『海に眠るダイヤモンド』の第3話の、リナと進平のシーンです。

一人になりたかったのか、少し離れた場所で和歌が書かれた紙を持っていた進平。

その紙に書かれていた、和歌の中でリナが気にいった歌が山桜の歌でした。

歌の説明を進平から聞いたリナは、その情景に思いを巡らせていました。

「花だけが知っている、私の心」

 

山桜の和歌が出てくるシーン②

二つ目のシーンは、同じくの第3話の鉄平と朝子のお花見の場面です。

落ち込んだ朝子を励まそうと、鉄平が中ノ島にお花見に行かないかと誘い、実現したお花見デート。

そこで朝子が見たのは、満開に咲き誇る一本の桜の木でした。

誰もいない中ノ島で、美しく咲いた桜を見て「夢が叶うた」と朝子が言っていました。

一本の桜の木の前に立つ鉄平と朝子。

この場面から切り替わり、映像は現代を映し出しています。

現代のいづみが桜の和歌を懐かしむように、和歌の意味を玲央に伝えていました。

「あんたが私をわからなくても、私があんたをわかってやれなくてもそれは仕方がない。誰の心にも山桜があるんだ」

二つの時代が、桜でリンクしている印象に残るシーンです。

 

山桜の和歌が出てくるシーン③

『海に眠るダイヤモンド』の第4話でも、桜の和歌が登場しました。

鉄平と朝子の会話の中に、自然に溶け込んでいたので聞き逃してしまった人も多いのではないでしょうか。

百合子との上手くいかない関係を思い悩む朝子に対して、鉄平が和歌を用いて話題を切り替えるように歌っていました。

桜の和歌の考察の前に、山桜の和歌の全文を振り返ってみましょう。

 

海に眠るダイヤモンド山桜の和歌について

ドラマの中で使用された、山桜の和歌はこちらになります。

原文は以下の通りです。

もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
作者は、前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)(1055〜1135)です。
百人一首に収録されている、大僧正行尊の66番目の歌
僧侶として山に修行に入った時、ふとしたきっかけで山桜と出会いました。
孤独な修行期間と言う事もあって、突然ポツンと現れた山桜の景色に、作者はきっと大きな感動を覚えたのでしょう。

現代の言葉遣いにしてみると、次のようになります。

私がお前を見て愛しく思うように、お前も私のことを愛しいと思ってくれ、山桜よ。
お前以外に私を知る人は(こんな山奥には)いないのだから。

ここで出てきた「知る人」とは知人や知り合いの事ではありません。

私の事を知っている「自分の理解者」を意味します。

どういうことかと言うと、誰もいない山に、たった一人で修行に入ると孤独を感じます。

山で修行中の自分にとって、そこには理解者が誰もいないということを表しています。

そこにあったのは、美しい山桜だけだった。

ひとりぼっちの山修行だったけど、山桜と出会えた事で一人ではないように思えたと、言う事

 

海に眠るダイヤモンド山桜の和歌に込められた意味は?

『海に眠るダイヤモンド』の中で、何度か出てきた山桜の和歌に隠れた意味合いを考察していきましょう。

 

朝子の孤独

山桜の和歌の意味を考える時に、どうしても外すことのできない登場人物は朝子の存在です。

朝子は日々多くの人に囲まれていながらも、どこか孤独を感じているように見えてなりません。

端島の銀座食堂で育った朝子は、毎日、決まった客に食事を提供する日々を繰り返していました。

食堂には休みもなく、百合子の様に島を出ることも無く、リナの様に自由に旅にも出られません。

みんながどこかへ行く中で、島に残り続ける朝子は、きっと孤独を感じていた事と考察出来ます。

明るく振る舞う朝子の本当の心は「食堂の朝子」から一歩踏み出したかったに違いありません。

そんな朝子が密やかに孤独と向き合う姿は、大僧正行尊が歌った山桜の心と通じるものがあります。

 

一人ぼっちのいづみ

『海に眠るダイヤモンド』の第1話で、玲央と端島を訪れたいづみは、島が見えると同時に泣き崩れていました。

端島であった出来事や、端島への懐かしい想いがあっての事だと推測できます。

当時を共に懐かしむ人が居ないからか、いづみもまた一人ぼっちなのかも知れません。

今や大きい会社を経営しながらも、どこか冷めきった家族と後継者の問題に悩まされていたいづみ。

「私が欲しかった人生って、こんなだったかしら…」

いづみの葛藤を感じられるこの発言には、長い間いづみが抱えてきた問題の根深さが垣間見れました。

いづみは自分の本当の想いを、桜にだけ話していたのでしょう。

山桜の和歌が、いづみの気持ちを代弁している様にも捉えられます。

 

百合子の強さ

『海に眠るダイヤモンド』の第4話の冒頭で山桜の和歌が登場したのは、百合子が自分の過去と向き合う姿に深く関わると考察出来ます。

家族を失ったやり場のない憤りを抱えながらも、自分を許し、友人を受け入れた百合子。

彼女もまた、たった一人で過去と向き合っていたのです。

盆踊りの日に、百合子は朝子を誘いました。

百合子は朝子の浴衣を着付けながら、これまでの意地悪を謝ったのです。

「あなたに許されたい、あなたが許してくれなくても私は許すわ」

桜の木に想いを話すと言うことは、自分自身と深く向き合うという事、山桜の和歌にはそんな意味が込められているのではないでしょうか。

 

海に眠るダイヤモンドの和歌の意味は?山桜の百人一首を調べてみた!のまとめ

『海に眠るダイヤモンド』の山桜の和歌は、孤独感や心の葛藤を抱える登場人物たちの心情を象徴的に表していました。

山桜の和歌は物語全体に深みを与え、登場人物たちの心の動きをより深く理解するための重要な要素と言えます。

こちらの記事はあくまで一つの考察であり、『海に眠るダイヤモンド』をより深く理解する一助となれば幸いです。